物を「創る」基本は「質の良さと奥深さ」、再認識させてくれたアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』

2006年09月17日 19:30

先に【個人サイトでもCGMの仕組みをうまく活用するには「質の良さと奥深さ」という基本原則を守ること】【通販サイトで流行るもの、涼宮ハルヒと鼻毛カッター】で「CGMに限らず物創りの基本は『質の良さと奥深さ』にある」という話を展開した。その中でサンプルとして取り上げたアニメ(と原作)『涼宮ハルヒの憂鬱』で「作り手側の『良いものを創ろう』という意気込み」がまたひとつ証明された話があったのでここに感想も含めてまとめておくことにする。

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ネタ元は先日15日に発売された『季刊エス』という「漫画・イラスト・アニメ・ゲームなど、クロスジャンルな世界を紹介しながら、物語とビジュアル表現をレポートする総合誌」。本屋で立ち読みの山が出来ていたので何事かと思い手をとってみたところ、他の特集と並んで『涼宮ハルヒの憂鬱』のシリーズ演出山本寛氏のインタビューが掲載。その中でいくつかのエピソードが語られていたので納得。興味深い話がいくつも掲載されていたが、上記「物創りの基本は『質の良さと奥深さ』」に関連する、感心した話をひとつ。

放映中後半の部分で、主人公らの学校での文化祭のようすを描写した回『ライブアライブ』についてだが、放送を見た際も妙に細かなところが気になっていた。インタビューで語られていた話はそれを裏付けるものだった。

いわく、原画のスタッフ数は通常の三倍、動画枚数は通常の二倍の数。複数の人物らの文化祭での動きを同時系列で動かし、一つのグループの行動のシーンの中で他グループの動きがさりげなく見えて「同じ文化祭で時間の経過を体験している」ことが分かるような演出(モブと呼ばれる群集シーンでよく見られる。例えば後ほどバトルを繰り広げるコンピュータ研究会のゲーム展示会の様子がさりげなく映し出されたり、主要登場人物の一人キョンがぶらぶら校内をうろついていると彼の視野にはないが画面の片隅で他の主要人物の涼宮ハルヒが楽器を持って廊下を横切るなど……『24』や『踊る大走査線』のような、同時進行劇)を意図的に行っている、など。「多数の人が行きかいがやがやとしている文化祭」の演出としては実に巧み。

また、この回のメインシーンとして知られているバンドの演奏シーンで、『God knows... 』『Lost my music』の二曲が歌われ演奏されるのだが、やけにリアリティがあるなと思っていたら、主要人物の一人長門有希が奏でるギターのシーンや涼宮ハルヒのアップのシーンはそれぞれ実写を元にトレースしたのだという。特に前者については、「プロに実際に演奏してもらいビデオに撮影」「ビデオをキャプチャーしてプリント」「そのプリントを上からなぞる」という、ロトスコープという技法を使っている。そしてこのギターを弾いているシーンはひとコマ打ち(フルアニメ)で制作されているのだそうな。どうりでやけに滑らかに動いているわけである。

長門のギターシーンさて蛇足ながら気になるのは「じゃあそのプロのギタリストって誰よ」ということになるのだが、これは検索ですぐに判明。「ライブシーン」「ギタリスト」「涼宮ハルヒ」の重複キーワードで検索したところ、【該当する日記がトップ】に掲載されていた。そこには【スマッシュルーム】所属のギタリスト西川進氏の言葉として、「アニメのライブシーンで私の演奏を映像で忠実に再現したいということで、私が弾いている所をDVで何度も接写」など撮影当時のようすが事細かに描写されている。アニメ名を間違っているようだが(『詰合』はCD名)これで間違いない。色々な意味で納得。

その他さまざまなエピソードがインタビュー記事に掲載されているが、読むにつけ、この作品が流行る要素をもってして世に送り出されたのを再認識するしかない、というのが正直な感想。シリーズ全体に使われるのならともかく、たった一話の特定シーン(メインシーンではあるが)のために、プロのギタリストに演奏を頼んでその動きを忠実にトレースすることで、「リアリティ」を出そうとするなんてこと、普通のアニメではまずしない。というか出来ない(予算や時間の都合上)、あるいはやろうとしない(モチベーションや楽をしようという現場の考え)。だがそこをあえて今作品のスタッフはやってのけた。先の【京都アニメーション、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』エンディング「ハレ晴レユカイ」のダンス振り付け絵コンテ完全版公開】にしても、この「プロならでは」の姿勢が見て取れる。

本当に良いものを創りたいのなら、「質の良さと奥深さを守る」というクリエイターが持つべき基本原則をひたすらに、それこそ愚直に守るのが大前提。流行るかどうかは神のみぞ知るが、幸運があれば誰かがそれを認め、広めてくれる(このあたりが口コミ戦略・バイラルマーケティングの正しい基礎でもある。また、方向性そのものに問題があればお話にならないのも事実)。

種まきにたとえるのなら、

「よい種をたくさん植えて一生懸命育てたからといって、豊作になるとは限らない。しかしよい種を植え心を込めて育てなければ、豊作の喜びを皆と分かち合うことはできない。何はともあれ、誠実に良いものを創るにはどうしたらよいかを考え、それを愚直に実行していくことが成功へのもっとも確実な方法。種を植えねば始まらない」


ということになるのだろう。最近では手法のうわべだけをかすめとってひとときの成功を愉しむことこそが「真の成功」という風潮が広がりつつある。だがそのような「上っ面だけの成功」は足元がおぼつかず、確かな土台を持っていないから、ちょっとしたことですぐに崩れてしまうもの。仮面はすぐにはがされる。

逆に、愚直に一生懸命良いものを送り出そうという努力に対しては、インターネットの普及により、昔と比べればずいぶん「報われる」可能性が増えてきているのも事実。今回の『涼宮ハルヒの憂鬱』もインターネットやブロードバンド環境がここまで普及していなければこのような盛り上がりは見せなかっただろう。今回の記事の中で見つけ出した、ギターシーンのオリジナルのギタリスト西川進氏にしても、インターネットが無ければ探し出すことは不可能だった。

ネットによって情報の蓄積とその情報の検索、そして第三者への発信が容易になっている現在だからこそ、「よい種が、懸命に育てられた苗が、大きく成長し実をつける」可能性が増えてきたということになる。

Web2.0やCGMといった新しいように見える言葉に代表される、インターネット時代の新世代に向けた動き。だがそれも、単に道具が少しずつ進歩しているだけであって、物づくりそのものは基本に返りつつある。……というより、道具の精錬化により、純粋な物づくりの「基本」「正しさ」がより強調される方に進みつつあるのではないかとも思えてくる。

そんなことを窓越しに見える降りしきる雨のようすを見ながら、久々に買った「こういう系統」の本を手元にしながら思うのだった。

(C)2006谷川流・いとうのいぢ/SOS団


(最終更新:2013/09/16)

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