「ググる」と「教えてくん」と「連想」と
2006年01月22日 18:10
先に【ベイズ理論の話】を書き連ねていた際に、頭に引っかかることがあった。ベイズ理論を実践するに当たり(まぁ裏で色々考えているワケだが)、データを計測する項目を増やせば増やすほど、最終的に対象となる項目の確証度は高くなる。つまり色々な計測項目を増やした方がよいということになる。一つの事象とそれに連なるデータに対し、どのような観点から項目を見つけ出していくか……要は連想ゲームということになった。前の話の例に挙げた犬のレースでなら「雨の日の勝率」とか「体重が前日より減った場合の勝率」とか「特定の相手と共に走った場合の勝率」とか。そしてふと考えたこと。「連想」って何だろう。
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一つの事象からさまざまな物事を連想していく。仕組み的には「ある事象を多種項目に分けていき、その項目について自分の頭の中のデータベースで元の事象に近い事象をピックアップし、連想対象とする」ということなのだろう。
これでは意味が分かりにくいので具体例を挙げてみる。例えば「牛丼」。「牛丼」から色々なものを連想したいとする。「牛丼」はさまざまな項目で定義できるわけだが、例えば「吉野家」という項目なら、「豚丼」や「牛焼き肉丼」も同じ項目では該当するわけだが、「ラーメン」や「ステーキ」は該当しない。少し限定する項目の範囲を広げて「牛丼チェーン店のメニュー」という項目にしてみると、別会社である「松屋」の「カレーギュウ」も該当するが、「吉野家」という項目では当てはまらない。さらに、先の「ラーメン」や「ステーキ」にしても、「外食メニュー」という項目にすれば、「牛丼」との連想項目では○になる。また、「牛肉を使っているか」という項目で考えると、「牛焼き肉丼」と「ステーキ」が該当する(カレーギュウも正確には該当するがメインではないので除外する)。
牛丼をキーワードにした具体例
頭の中では一瞬のうちに、無数の項目分けとその項目に該当するかどうかについて、これまた無数の「記憶している事象」をチェックし、連想対象となるかを計算しているのだろう。もっとも、記憶というのはあいまいだから、チェックされる対象は「本来覚えているはずのものすべて」ではないし、項目もいくつも吹っ飛ばされる。そうでないと頭がオーバーヒートしてしまう。
さらに、それぞれの項目についてすべて同じ重きが置かれているわけではなく、連想元の事象についてや「なぜその事象の連想をする必要があるのか」という状況により、各チェック項目の重きは変わってくる。
例えば先の件なら、「吉野家のメニューって牛丼以外に……」という話の展開なら、「吉野家」の項目以外はすべて重きがゼロにならねばならないし(吉野家のメニューを聞かれて松屋のメニューを答える莫迦はいない)、「吉野家行くけど何食べようか」という話が持ち上がっているものの、先日のアメリカ産牛肉輸入停止のニュースを聞いて何となく牛肉を避けたい気分になっていた場合、「吉野家」の項目にチェックを入れたとしても「牛肉」という項目の重きは心境的に軽くなっているはず。
豊かな発想、連想ができる人というのは、この「項目付けをするための項目」と「もともとの事象のデータ」を豊富に持っている人のことをいうのだろう。
この考え方をキーワードや言葉一つ一つのレベルにまで分解して考え、さらに履歴によるベイズ理論をも加味してロジック化しているのが、例えばGoogleの「もしかして」機能、アマゾンの「オススメ商品」なのだと思う。
ただ、人間の発想は機械仕掛けではないので、チェックすべき項目が時としてごそっと減ったり、チェック対象となる事象が極端に少なくなることがある。また、気まぐれで重みが上下することもある。そういうことが「ボケ」や「ピント外れ」、あるいは逆に「個性」や「野生の勘」という結果を導くのだろう。「突拍子もない発想」の類も、この「項目分け」における項目が、通常は出てこないような内容であり、かつその重みが相当(気まぐれで)重要視されたものだと仮定すれば説明もできる。
昔から、少しでも分からないと、あるいは連想して物事を調べられないと掲示板などで質問する「教えてくん」という者の存在が知られている。その物事を知っている人から「まずは自分で調べてみろ」という意見がよく聞かれるのだが、「調べるのが面倒くさい」「調べるより聞いて教えてもらう方が楽で早い」という横着な考え方を除けば、質問者には聞きたい物事に関する「項目分け」ができていない、つまり引き出しがないのだと思われる。
『ねこめーわく』という漫画に次のようなエピソードがあった。猫が人間のように生活をしている世界に訪れた人間の女の子が、猫から質問を受けるシーンなのだが、
猫「(コタツを指して)なんです? これ」
(中略)
女の子「百科事典でも引けばすぐにわかるでしょっ」
猫「は はあ。それはそうですけど……」
猫「どこをひいたらいいんです?」
女の子「……それもそうね」
というやりとり。つまり女の子はコタツとはどのようなものをすでに知っているから「百科事典をコタツというキーワードで引けばすぐに分かるはずだ」としたのに対し、猫たちにしてみればコタツはまったく未知なるもので、自分の知識の中には類似するものも含めて該当するものがなく、項目付けができない。だから連想のしようがなく、事典でコタツという言葉そのものはもちろん、類似するものを調べることすらできないのだった。
「項目分けができない、自分の知らないものには連想することすらままならない」という良い例なのだが、「教えてくん」の場合もあるいはこれに近いものがあるのではないだろうか。項目付けを行う項目数そのものが少ないので該当するものが無い(先の例なら「ステーキ」が探すべき対象なのに「吉野家」という項目分けしか知識にないので、「牛肉」「外食メニュー」項目で類似該当する「ステーキ」を導き出せない)、というわけだ。「ググって調べてみろ」といわれても、連想するものがない、あるいは見当はずれなものだから、調べようも無い。これなら何となく納得がいく。とはいえ逆に考えてみればそれだけ知識の引き出しの中身がスカスカだということ、あるいは項目化するだけの整理がされていないということを実証してしまっていることにも他ならないのだが。
ベイズ理論における「神の存在を方程式で説明できる」という主張ではないが、さまざまな事象も視点を変えて考えることで、ロジック化は可能ではないかと最近思いつつある。今件もそんな一例として覚え書き的に書き連ねてみたわけだ。少なくとも投資などに役立つとは思えないが(苦笑)、日常生活における発想法においては何らかのきっかけにはなると考えている。
(最終更新:2013/09/19)
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